嵐とみる『スプリット』

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シャマラニストという呪文で、ぢゅんくんのエモが暴走する。

相場「ラスト5分に衝撃が!みたいな煽り、ふかしだと思ってたら本当に衝撃だったねえ」

櫻丼「そうだったね」

相場「まさか『スプリット』が『アンブレイカブル』に繋がるとは…」

ミノ「うんうん」

相場「マカヴォイが後のブルースウィリスだったなんて、一体誰が想像したことだろう…」

リーダー「ん?」

相場「だからマカヴォイはスキンヘッドにしていたんだね…彼はブルースウィリスだから…」

櫻丼「なんか壮大な勘違いをしているような気がするけど感動してるみたいだしまあいいか」

ミノ「シャマラニストのぢゅんくん的には楽しめたの?」

ぢゅん「…『シックスセンス』から今作まで、シャマランの全ての作品には、それぞれなりの良さがあったとは思っているんだ。もっとも、近年のシャマランは、ちょっとこぢんまりしていたかもしれない。元々派手な映画を撮る人ではなかったのかもしれないし、それはそれで嫌いじゃなかった。それでも今回の作品は、ちょっとしたゲームチェンジャーだったんだ。そもそも、俺とシャマランとの出会いは、まあきっと大抵の人と同じだと思うけど、『シックスセンス』だった。中学生ぐらいだったかな。友達と近所のレンタルビデオ屋で、お金を出し合ってかりてきた。みんなそれをホラー映画だと思っていたから、放課後に騒ぐためのひとつの材料にしたかっただけなんだ。そして、俺はその映画のラストに衝撃を受けた。例のどんでん返しに、ってわけじゃない。というか、その頃はまだ映画ってもの自体を見慣れてなかったし、映像で叙述トリックをやる巧みさとかには、そんなによく注意を払えていなかった。だから俺が衝撃だったのは、それが、あまりにもささやかな結末だったから。だって少年はお化けが見えるっていう苦難を抱えているんだから、最終的にはそれをやっつけるとか、武力やら、おまじないの力とかで払い除けるとかするんだと思ってたんだ。そしたら、それをただ、「受け入れる」っていうラストだった。お化けが見えるってことをただ受け入れる。その現実を抱きしめるみたいな。あの映画はまるでそれを当然みたいに、そんなことがあるかもしれないし、そんな人間がいるかもしれないし、いたっていいんだ、って言っているみたいに描いていたんだ。驚いたし、でも、なんとなく自分にしっくりくる、っていう感じがした。それから、少しゴシックだと思った。まあ、あくまで俺の中でのゴシックの定義なんだけど。それは異形の者への憧れなんだ。それは大抵は死にまつわるグロテスクなもので、子供の頃は身近だったのに大人になると「怖い」と言われるものたちで、だけどゴシックの照明を当てれば素晴らしくて美しいものに見える。といっても俺自身は、不健康そうな白塗りをしたり黒いマニキュアを塗ったりしたことがあるわけじゃない。その代わりにその頃の俺はギラギラした紫色のジャケットをよく着てた。すごく人目をひく色だったけれど、俺は別に目立ちたいから着ていたとか、オシャレだから着ていたってわけじゃないんだ。俺はそれを着ないと生きていけなかった。それを着ていると自分は自分だってことに初めて自信が持てた。まるで宇宙飛行士の防護服みたいに、俺はただこの世界に存在するということに耐えるためにそれが必要で、それを着ることで息ができたんだ。だからもし俺がシャマランの映画に出るなら「紫のジャケットを着る男」になったろうね。大した役じゃなさそうだけど。『シックスセンス』から1年ぐらい経って、『アンブレイカブル』が来た。その頃すでに『シックスセンス』のおかげでシャマランはすっかりどんでん返しの代名詞みたいに宣伝されていた。『アンブレイカブル』のどんでん返しはその映画自体にある。だってCMではごりごりのサスペンスみたいに思わせていたからね。まさかスーパーヒーローの誕生譚だったなんて誰も予想できなかったはずだよ。それで俺はまた衝撃を受けた。全然違う話なのと同時に、前作と同じ事を語っていたから。「役割」の話だった。『アンブレイカブル』の中には、「毎朝起きて悲しい感じがするのは、自分の果たすべき役割を果たしていないから」という台詞があった。それで俺は、自分も毎朝起きて悲しい感じがすることに、説明がついたと思った。「紫のジャケットを着る男」にもこの世に果たすべき役割があるのかもしれないと思った。映画や物語では、一番大切なことは言葉では語られない。なぜか巧妙に隠してある。メッセージを受け取るためには注意深くそのサインを見つけないといけない。現実でもそうだろうか。俺たちは毎日何かを見逃しているんだろうか。自分のアパートの階段が何段あるのか、泊まったホテルの部屋番号、公衆トイレで目にとまった落書き、いつも電車の何両目に乗るのか、行きつけの店のタイルの幾何学模様、祖母が死ぬ前によく言った小言、カラスの死骸を避けて回り道したこと、道の片隅に子供の靴が落ちていたこと、そういうものがいつか奇跡のように繋がるんだろうか。そういう時、奇跡の前にひれ伏して神のしわざにしたくなる。だけど結論を急いじゃいけない。すべてを安易に意味に結びつけるのは現実を単純化することだから。この世はもっとカオスなはずで、分かりやすい教訓を与えてはくれないだろうから。そう思っていても実際、俺たちは物語なしでは生きていけないんだ。物語を通して現実を見る。「赤ずきん」や、薔薇の持つ魔力の話や、ドラキュラの歯から滴る血のイメージを知らずに「赤」を見ることはできない。純粋に電気的な刺激としての「赤」を見ることなんてできるんだろうか?でも俺たちは「赤」を信じている。俺は「紫」を信じてた。それは俺を強くしたし、そう信じていた。その日俺はシャマランを信じることにした。物語を通じてなら世界と繋がれると思った。俺は自分を「シャマラニアン」だと解釈した。そうなったことにもなにか意味があると解釈した。ところで物語を通じて世界を見ることにはひとつだけ弱点がある。それは人間は”常に”解釈を間違うということだ。何故かというとそもそも世界は物語じゃないからだ。『アンブレイカブル』と『スプリット』の悪は両者ともこの解釈の誤りから生まれている。「物語る」ことが「役割」であるシャマランがなぜその負の側面をわざわざ描くのだろう?『スプリット』のビーストは、それを信じたから存在した。物語を信じる力それ自体がこの映画のヴィランなんだ。確かに不条理な不幸をそのまま受け入れるのは困難だ。自分の受けた傷には何か意味があったと思いたい。そもそもビーストの話の発端は、女子学生から受けた性的ないたずらに困惑した彼が、それに物語的な意味を与えてしまったことだ。憎しみや悲しさを儀式に置き換えることで感情の脆さから距離を置いた。母親の虐待からそうしたように。そして映画には彼と対照的な存在が登場する。主人公のケイシーだ。彼女は自分が身内から受けた不条理な扱いに意味を与え、納得しようとはしない。あきらめと俯瞰という武器で現実に対処している。ビーストは最後にケイシーに「僕たちは同類だ」という事をいうが、確かに彼らの苦難の種類はそれが存在しないように扱われるという意味においては似ている。ケヴィンの人格たちは自分たちの苦しみすら存在を認められないという恐怖に怯えているし、ケイシーの受ける家庭内の性的な虐待というのも世間的にはなかったことにされやすい。誰が自分を信じるのか?同じ痛みを抱えながらも、ケイシーは今までのシャマラン映画の典型的な登場人物とは違う。彼女は意味という画びょうに赤い線を引く世界にはいない。彼女は経験だけを持っている。シャマラン映画に放り出された異邦人である彼女の経験は、映画の中では彼女の身を助けない。父に習った銃の経験もなんの効果も発揮しない。結局彼女を救ったのはビーストの解釈だ。記号と解釈の世界で生きているこの映画のヴィランには、彼女の傷は聖痕として映った。…だけど、だけど、彼女にとってそれは記号じゃない。痛みだ。そしてそれは続く。現実は映画のように終わらないから。だから彼女は本質的に救われたわけじゃない。映画が映画の中で映画の不可能について描くことができるんだろうか?この疑心暗鬼な作品は何を伝えようとしているのか?俺は今まで無邪気にシャマランを信じるって思ってきたけど、もしそのこと自体がシャマランの映画を歪めているとしたら?俺もヴィランになるんだろうか、「紫のジャケットを着た男」として?大したヴィランじゃなさそうだけれど」

相場「……お、おわった?」

櫻丼「お、おう…どうしたの急に…」

ミノ「思い入れがすごかったんだね…」

リーダー「でも、なんだかぢゅんくんらしくないよ」

ぢゅん「ごめん、きっと今のは、別の人格だったんだ」

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