嵐とみる『ボヘミアン・ラプソディ』

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そうだ、バンドやろう。

 

櫻丼「われわれの世代が初めて触れたQueenといえば『犬のおまわりさん』じゃないすか」

相場「え?ハッチポッチステーションの?今ハッチポッチステーションの話してる?まじかー!いいよねハッチポッチステーション俺まじハッチポッチステーション好きだったからさー!!」

ぢゅん「今のそんな興奮するとこ?」

櫻丼「で、これって何気にでかくない?Queenって、リアルタイムで体験した人たちにとってはアバンギャルドとかクイアな存在だったはずなんだけど、ある世代以降の人間にとっては「教育的な音楽」になってんのよ」

ミノ「まあ、あの番組は今でこそ見返すと「グッチ裕三のNHK私物化コーナー」的クレイジーさは感じるけれども、たしかにあの時点で既にQueenもビートルズも「安全な音楽」になっていたのかもな」

相場「うん、そんなにロックってイメージはなかったかもなあ」

ぢゅん「でも大衆化されるっていうのは、曲の力や個性が強いからこそでもあるよ。ミッキーマウスが単純なシルエットだけで表現できるみたいに、Queenの曲は究極まで形骸化してもなお、そのQueen性を保っていられるってことだから。それがまさにポップってものじゃん」

ミノ「俺は結局大衆化って、「物事が受け手の心情へ四捨五入される現象」だと思ってるんだけど、今回の映画を観るとQueenは初めからそこを狙って作っているように見えた。『ボヘミアンラプソディー』の歌詞についても、フレディが「歌詞の意味はファンが決める」的なことを言っていたし」

櫻丼「ある地点で、彼らは「大衆音楽」を自ら志向しているように見えたよね。まあ、『We Will Rock You』とか、祭りだもんね完全に。”ハレ”の音楽っていうか。最初から、場末のパブに集まった数十人の客じゃなく、アリーナに詰めかけた数十万人を想定した曲だよね」

ぢゅん「しかし今、10万人に向かって「私たちは勝者だ」と歌ってチープにならない存在の説得力を持ったスターがいるだろうか、って考えると、やっぱりフレディマーキュリーって稀有な存在だったんだなって改めて思ったよ」

ミノ「というかこの映画自体が、Queenを”ポップスターとして”再定義することを試みてるんじゃないか?「偉大なるポップスター、Queen」という記憶を上書きしようというの。で、今までのところの世界のリアクションを見ると、それはどうやら成功したっぽい」

相場「上書きなんて言うと創作みたいだけど、一応これは伝記映画なわけでしょ?」

ミノ「これが実在のバンドの半生だって思って見ると、あまりにも整然としすぎているって気がしないか?」

ぢゅん「そりゃ、大抵の伝記映画って大なり小なり脚色したり、分かりやすくエピソードをまとめたりしているもんじゃん。しかもこの映画はそれこそ、ラスト20分のクライマックスに向かって全てのシーンがチューニングされているっていう、その構成自体に凄みがあるんであって、それを「よく出来すぎてる」っていうのは……」

相場「うんうん、ライブエイドのシーン凄かったじゃん!凄すぎて観た後自分も声帯が強くなった気がしたよね!」

ミノ「うん…いや俺も泣いたさ!そりゃもうラストは号泣だったさ!だけど、泣きながらこう思ってしまったんだ。果たして俺は泣いているのか?それとも泣かされているのか?と…」

櫻丼「ミノ、泣いている時までめんどくさいのかよ…なんか関心するわ…」

ぢゅん「そもそも泣いていると泣かされているはどういう違いなわけ?」

ミノ「いいか、例えば俺が自宅で勝手にyoutubeでライブエイドのQueenの映像を見たとする。その時、俺は(やっぱりQueenは素晴らしいバンドだ)って、感動して泣くかもしれないし、逆に、楽しくなって笑顔になるかもしれない、もしくは、(なんだ、ロックとか今聴くと昔っぽくてダサいな)と白けるかもしれない、それはまったく俺の内心の自由なわけよ」

ぢゅん「映画で見たって、そこでどう思うかは自由なんじゃないの」

ミノ「いや、俺はあの時、ラスト21分を俺が”どのように感動するべきなのか映画に規定されている”気がしたんだ。だって、ライブエイドの時にバンドメンバーが「フレディがエイズでもう長くない」という事実を知りながら演奏していた、という脚色は、そこからはどうしたって彼らのパフォーマンスに”ある意味”を読み取ってしまうわけで、ついでにいうと「病を押してショー・マスト・ゴー・オンする勇姿」というスポ根的ドラマ性まで生み出しているわけで、たしかにそれは感動したよ、感動したけど、それって本当に音楽に感動したってことなのか?」

相場「あ、そのライブエイド前にエイズの宣告を受けていたって脚本が、事実と異なるって物議を醸してるんだよね」

櫻丼「事実と異なるって事自体が問題なんじゃなくて、ドラマチックに脚色することで彼の病と死を消費することにならないか?という倫理観の問題じゃないかな。かといって、ただ時系列的に正しく描写することが即ち真実を描くことってわけでもないとは思う。真実にはコストがかかるからな。語るにも知るにも」

ぢゅん「結局、それを映画的”演出”と呼ぶか”作為”と呼ぶかは、捉え方の違いってだけなんじゃないのかな。音楽とストーリーがある、それが映画ってもんじゃない。それを映画的マジックって思うかどうかだよ」

ミノ「でも映画におけるストーリーっていうのは、「人間ドラマ」だけじゃないだろ?セリフがなくてもカメラワークや役者の身体が雄弁に語ることもある。そういう意味であのラストは、それだけで十分映画的だったんじゃないかと思うんだ。人間ドラマ的味付けをしなくてもね」

櫻丼「俺は映画的演出があること自体は悪だと思わなかったけど、その演出の方向性が保守的かなあと思う部分はあった。ライブエイド直前にフレディがお父さんと和解するという場面を挿入したのもちょつと説明的かな」

相場「フレディくんの中では、お父さんに認められていないってことがずっとしこりとしてあったんだよ。それが救われるシーンはあってほしいじゃん、優しさ的に」

櫻丼「お父さんがフレディのパフォーマンスを観て心を動かされた、だったら素直に良かったな、って思えたんだけど。
なんかあそこで、彼はこれからお父さんの教えに沿った「善い行い」をしに行くんですよ、理想の息子になれたんですよ、ってわざわざやるってのはさ、どうも、彼は家父長にこそなれなかったが、最終的にはこうやって社会に貢献できる”生産的”な存在になれたんですよ、ってエクスキューズ入れられている感があってさ」

ぢゅん「そこに重きを置いたってのは、あの時代の空気をそのまま反映させているんじゃないかな。”理想の息子”になるって、今より意味が大きいでしょ」

相場「途中までが辛い話だったから、ほっこりできて良かったとおもうけどな。ていうか、主演の人が捨てられたE.T.みたいな眼をするからさ、見てて悲しくなっちゃうよね。あのライトカチカチシーンとかさ、つらすぎる」

櫻丼「そういう意味では、ラミマレックがフレディマーキュリーに全く外見が似ていない、っていうのも結果的には功を奏しているのかもしれないね。ラミのフレディは、フレディという人の中の悲哀の部分の具現化、って感じに見えてくる」

ぢゅん「実際のフレディはさ、もうちょっとお茶目感があるよね。本来の意味での”ゲイネス(陽気さ)”がある」

ミノ「映画のフレディの悲哀はさ、彼がゲイであるってことに主に起因してて、ゲイである事が彼の悲劇だった、っていう描かれ方してるけど、逆に、彼はゲイであることで楽しかった、っていうこともあったはずなんだよね。もちろん時代的に、ゲイであることでつらい思いをしたことは沢山あっただろうよ。でもさ、一度でもロックに夢中になったことがあるならこういう経験があるだろ。例えば学校や社会でははみ出し者で、うまく生きられなかったりする自分が、ある日ロックの世界に出会ったその瞬間、自分がそういう人間であったことに意味が生まれるっていう、あの感じを。

そこには自分がアウトサイダーであることの誇りと悦びがある。だからフレディが始めてゲイバーに訪れるシーンは、映画では「破滅の予兆」だけど、実はあれはもっと心が躍るような奇跡的な瞬間だったんじゃないか、自分を受け入れてくれる世界との甘美な邂逅を、もっと感動的に描いたってよかったんじゃないかって気がするんだ」

櫻丼「たしかに、彼が影響を受けたゲイカルチャーの魅力的な部分は何故かあまり描かれないというのが惜しいよね。まあそれでいうと、Queenが芸術的に影響を受けたはずの他のカルチャーについても一貫してほぼフォーカスされないんだけどね。彼らが何を聴き、何を観て、何を真似し、もしくはしなかったか、っていうことを抜きにして…本当はQueenのクリエイティビティをQueenの音楽だけで表現することは出来ないと思うんだけど、まあしかしあんまりそこに注力すると音楽エンタメ映画ではなく音楽教育映画になってしまいそうだし、バランスがね…」

ミノ「『ソーシャルネットワーク』はFacebookそのものについて一切語らないことで、『ジョブズ』はApple製品そのものについて一切語らないことで成功しているわけで、中途半端に専門的な事を語るぐらいなら全てを人間ドラマに全振りした方がいいって事なんだよ」

櫻丼「俺的には、ブライアンメイがニュアンスを出すためにギターピックの代わりに6ペンス硬貨を使って弾いているっていう面白エピソードはどっかで入れて欲しかったけどなあ。ベースのジョンディーコンは電子工学を学んだって話は台詞で一瞬出てくるが、機材の自作とかもしてるし、フレディだけが奇人の天才なんじゃなくて、メンバーみんな音楽的変態なんだよね」

ぢゅん「しかし、ブライアンメイはルックスが本人過ぎてびっくりしたわ。他のメンバーも雰囲気が良く似てるよね。フレディ役も降板するまではサシャバロンコーエンがやるはずだったし、そうなっていたらかなりそっくりさんバンドになってたね」

相場「俺は、もしラミマレックじゃなかったらフレディ役はポールラッドがいいな。ラストの衝撃の4分間に伝説の『Don’t Stop Me Now』リップシンク完全再現やるから」

ミノ「それはもうフレディじゃなくてポールラッドじゃん。ただの」

ぢゅん「明るいフレディになりそうではある」

相場「とにかく明るい伝記作ってもいいじゃん。もう、スターにつきものの孤独とかさ、観ててつらいんだよ俺は」

ミノ「あなた、孤独をスターの特権みたいに言いますけどね、一般人だって孤独だからね。むしろ大抵の人間は日々孤独を抱えて生きているから。その上金もないんだからな!!」

リーダー「何言ってんだミノ!!ミノには俺たちがいるじゃないか!!」

ミノ「リーダー!」

櫻丼「急に…」

リーダー「俺たちは家族だ!!」

ミノ「そ、それじゃあ俺が借金したら連帯保証人になってくれるのか…?」

リーダー「それはできない」

ミノ「即答ですね」

リーダー「だがこうしよう、俺たちもバンドを組むんだ」

ぢゅん「いいね!俺ボーカルがいい!」

リーダー「だめだ。お前はオタマトーン担当だ」

ぢゅん「えーーーなんでだよせめてギターだろ」

相場(オタマトーン、いいな…)