ぢゅん「久しぶりに集まったけど、今回はテレビ放送の映画を観るっていう…」
櫻丼「そもそも最近、みんなで集まって映画を観るっていうことがなかなかできないじゃない。こういうのもアリにしていこうかなって」
ミノ「にしても何か色々貧しくなりすぎじゃないかね」
相場「新作ですらないしね!」
櫻丼「というかね、『天気の子』ってまさに貧しさっていうことの描写が詳細で、俺はそこにビックリして今日話したいと思ったんだよ。世間の反応からいって、『天気の子』ってなんかとにかくエモいボーイ・ミーツ・ガールなんでしょ?という予想をしていたから、こんなにダークな作品なのかと」
ミノ「ちょっとピカレスク的ですらあるよね。新宿でネット難民してる少年が銃を拾って、逃げるためにわりと躊躇いなく人に向けてぶっ放すというあらすじを追うと。主人公の厭世的な態度はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を愛読しているという描写で大体説明されるわけだが」
ぢゅん「でも、主人公の帆高が『ライ麦畑でつかまえて』を呼んでそうな人間に見えない問題っていうのがない?」
相場「いやそれは決めつけだよ。人には意外な面があったっていいじゃない。俺だって『モンテ・クリスト伯』とか読むよ?意外と」
ぢゅん「それはそうなんだけど、帆高の人物描写って他の部分が異様に薄いからさ、そこだけ説明のためにとってつけたように見えなくもない」
ミノ「自分の心情にあった文学作品にリーチできる程度の余裕が元々帆高にはあったということが、急にライター業務してもそれなりの文章を書けることとかの説明にもなってると思うけどね。まあそもそもあそこまで匿名性の高い主人公にする必要は謎ではある」
櫻丼「なんか世界観と美術の方が前に出てきて人物が背景化する感じはあるよね。とにかく冒頭の新宿の街の詳細かつ厭な描き方にはかなり拘りを感じるんだけど、あそこで受けた断絶によって後半どんどん社会の拒絶に向かっていくという」
ぢゅん「知恵袋の描写とかも細かいけど効いてると思った。ネットのコミュニケーションにはクソリプしか存在しなくて、帆高もそれを見てショックを受けるでもなく諦念に至っている」
相場「そんなことないよ!ネットにも良い人はいるよ」
ミノ「ネットの先にいるのは人間なんだから、親切な人もいるのは当然のことなんだよな。でもネットですら親切で実のある情報のあるゾーンとbot化した言説しかうろついてないゾーンとの間には深い川があるわけで」
櫻丼「そっち側にたどり着く前に諦めちゃうというのがね、結果、社会福祉をつっぱねちゃうみたいな所に繋がるというか。情報にリーチできないのも貧しさの一種だし、要は貧しさって人の視野を狭くさせるわけだけど、『天気の子』は、貧しさによって視野が狭まってるところに、さらに恋愛によって視野が狭まっちゃうわけで、そりゃ「キミとボク」しかセカイなくなるよねという」
ぢゅん「セカイ系以前の問題でね」
櫻丼「しかし世界を敵に回して主人公たちが逃げて逃げて、それで辿り着いた先にあった束の間のパラダイスが、池袋のラブホでからあげくんを「ごちそうだー!」って食べる、っていうさぁ…あのシーンはすごいね、『火垂るの墓』ばりの救われなさがあって、同時に美しくもあるんだよね。あんま肯定してはいけないタイプの美しさがあるの」
ミノ「からあげくん側も貧困の象徴みたいな文脈でお出しされるとは思ってなかったろうに…。ところで、この作品における銃の存在には色々含蓄があると思うけど、やっぱりそこにも「社会不信」というテーマが絡んでるように思う。アメリカで銃保有の権利を訴えている人々の根底にあるのも社会制度への不信でしょう」
相場「帆高くんは世間は助けてくれないから自分の身は自分で守るしかないってなってるわけだよね。でも陽菜ちゃんがやけにあっさり受け入れるなあってビックリしたけど。事情があるとしても銃携帯してる男と速攻で打ち解けられないな俺だったら…修行が足りないのかな…」
ぢゅん「ゾンビ映画なのでゾンビが出てきます、ボーイ・ミーツ・ガール映画なので帆高と陽菜は惹かれ合います、みたいな省略を感じたな。お互いの孤独に共鳴して…というのは理解できるけど」
櫻丼「そこは納得できるんだけど、なんというか、クライマックスのファンタジー的な部分までも「これはセカイ系映画なので」で片付けているように感じちゃったんだよな」
ぢゅん「RADWIMPSの曲がこれでもか!ってかかりまくるクライマックスね」
ミノ「あれはあれで振り切ってていいとおもったけど」
櫻丼「現実の厳しさをファンタジーの目を通して見つめなおす、もしくはファンタジーの力によって現実を克服する、というような作品って色々あるわけだけど、『ダンサーインザダーク』とか『パンズラビリンス』とか…」
相場「どっちも救われないタイプの映画だな…」
櫻丼「このタイプの映画って、ダークな現実からファンタジーの世界に飛躍させるときに、観客にもその嘘を信じさせないといけないっていうか、信じたいと思わせないと成立しないと思うんだけど、この映画はわりとそこらへん「エモ」の質感だけで乗り切っている感じがするじゃない。でも、人が天候を左右するっていうような大きな嘘をついているんだから、大きな嘘にはそれ相当に大きな飛び台を用意するべきだと俺は思うのね」
ミノ「だからそれがRADWIMPSってことなんじゃないの。でもJ-POPを仕掛けにして「何かよく理屈は分かんないけど感動させられる」ということに危うさはあるなとは思う。全然キリスト教徒じゃないのにゴスペル聴いて感動するとかあるけど、やっぱり音楽ってそういう「思想なき法悦」を感じさせちゃう力があるからさ。特にポップスって気付くとみんなが同じ方向向いて拳振り上げちゃう力を持ってるから。そういう意味ではずるいよね」
櫻丼「そこはやっぱ映画側で映画の文法内で描かないと、語られていることの音楽に責任を丸投げする形になる気がする」
ぢゅん「責任と言えば、主人公が最後に責任を放棄するって選択が公開当初賛否両論を呼んだみたいだね」
相場「そういう議論がされつくした後に話してるんだな俺たち…意味あるのかなこれっておもってくるな…」
ミノ「ただ見方によっては最後のあれって逆に、自分たちの責任を認めたっていう風にもとれないかな。つまり、「元々江戸時代には海だったんだから」とか「自然はカオスなんだからしょうがない」とか言うんでなく、「東京が沈んでしまったのは僕たちのせい、つまり人災であり、そのことを認める」という事なわけじゃない」
櫻丼「もしくは、かつてセカイ系アニメで肩の上にセカイを背負わされた少年少女…主に少女…特に美少女…の肩から「別に君一人が世界背負わんでいい」って責任を降ろしてあげた、ってことならいい話な気がするけど、まあその線にするには女性キャラの主体性がなさすぎるんだよな。「ボクがそう望んだから」のモノローグの方が力を持ちすぎてて」
ぢゅん「あれ、そういえば今日、リーダーは」
相場「リーダーは、毎回この場のオチを任されるという責任を放棄してお休みだそうです…」