エモがすべて
櫻丼「久々に新作映画を観たね!」
ミノ「前回はzoom開催だったから、リアルでこの集まりやるのは何と約1年ぶりだよ?その時観たのは『ジョーカー』だったからね・・・」
相場「でもやっぱり映画館で映画を観るのはいいよな。サブウーハーの爆音で内臓を振動させるのは健康に良いってばあちゃんも言ってたし」
櫻丼「そうなの?」
ぢゅん「俺は出来るだけ内容を理解したいと思って観に行く前に物理学の入門書を読んだんだけど……」
櫻丼「真面目だなあ」
ぢゅん「難しいって聞いてたから、専門用語とか連発するのかと思ってたんだよ。でも実際には瞬時に文字で理解することより、瞬時に視覚で理解することを求められたな」
ミノ「文字情報に関しては所々で要らんややこしさを発生させてたけどね。例えばあの「アルゴリズム」を「アルゴリズム」って名付けるのは「週刊少年ジャンプ」のこと「アニメ本」って言ってるような感じで無駄にややこしいよな・・・。
それでも、「最低限ここだけは押さえといてくださいね」みたいなポイントはかなり視覚的に工夫されていたと思う。順行と逆行のイメージを赤と青で色分けしていたのはその代表だけど」
櫻丼「そのイメージが最初に出てくるのは確か、セイターに主人公が連行される、隔てられた赤い部屋と青い部屋のシーンだよね。隔てられた二つの部屋の仕切りの窓から、速い分子だけを左から右の部屋へ、遅い分子だけを右から左の部屋へ通すように個々の分子を見分けられるような”悪魔”がいたら、ひとりでに二つの部屋に温度差が発生することになって、エントロピーの減少が起こるんじゃね?ってことを主張した「マクスウェルの悪魔」っていう物理学の思考実験があるけど、この時温度が減少した左の部屋の分子を青に、温度が上昇した右の部屋の分子を赤で表すことが多い….とかまあ、回りくどく説明するまでもなく、赤には動的で熱が上昇するようなイメージ、青には静的で減少していくようなイメージが直感的にあるよな」
相場「うーん、俺はあの青と赤は勇者王ガオガイガーの氷竜と炎竜のシンメトリカルドッキングを表しているのかと思ったんだけどな……」
ぢゅん「まじで何?」
ミノ「赤方偏移と青方偏移のイメージもあるし。救急車の音がドップラー効果で遠ざかると低く聞こえるのと同じように、光の場合でも、観測者から遠ざかる光のスペクトルは波長が伸びることで赤っぽくなって、近づいてくる光は青っぽく見えるっていう。これも、進んでいくイメージと戻ってくるイメージでしょ。逆回しの世界に回転扉でスピンするっていうのもなんかアクションとして分かりやすいよね。左右を反転させるイメージ」
ぢゅん「あーもう始まっちゃったか。オタクらがそういうミクロの視点で熱くなれば熱くなるほど、こっちはマクロの視点で冷めていっちゃうんだよな」
相場「やばい、ぢゅんくんエントロピー減少しちゃってるよ」
櫻丼「そういう使い方ありなのか?」
ぢゅん「いや、ギミックがよくできてるとか、その面白みとかは分かるんだけど、正直それがよくできてるからって、「で?」って感じも否めないんだよなー。俺がストーリーに期待してるのは、綺麗にパズルが解けることよりも、むしろパズルに余剰分があることなんだよ。作品の中にピッタり嵌め込まれなかったピースが現実にはみ出てくる時ってあるでしょ。まあ、ひとはそれを「余韻」って言うのかな……
例えば、「物理法則は過去と未来を区別しない」という起点から、逆因果律とか自由意思とかに接近する流れは一見『メッセージ』ぽくもあるけど、『メッセージ』って、時間に対する超越した見方を物語の中で経験することで、観た人の人生に対する価値観を少しだけ変えてしまう余韻を持っていたと思うんだけど、『TENET』は終わった瞬間、そこから自分の人生に何も持って出れない。俺はこの映画の中から何も持って帰れないんだ!」
ミノ「ていうか、そもそも『TENET』は現実のことを”何も”描いてないんだと思うんだよな。現実世界に対するメタファーすらない。純粋に映画のための映画みたいに思える・・・贋作がある意味で絵画のための絵画であるように。
例えばさ、柵の向こう側に連れ去られていくキャットを主人公が柵のこちら側から覗くと、まるでゾートロープのアニメーションのコマ送りのように見えるシーンがあったよね。ノーランは100年前に『壁の破壊』でリュミエール兄弟が発見した映像の逆再生よりもっと遡って、もっとも原初的なところまで精神的に時を下っていっちゃったんだ。幼児退行してしまった映画それ自体が、砂場で遊んでいるんだ」
櫻丼「現実を描いていない、っていうのはちょっと分かるな。特にキャラクターがさ、みんな可能な限り記号的に描かれていたよね。囚われの乙女に、悪のロシア人、世界を救う主人公、っていう。みんな、現実の人間を写し取ったものじゃない。どこかで見た「映画のキャラクター」を写し取ってきたみたいだよね。ボートの上の男2人と女1人。主人公が水面を覗き込んだら、そこに見えるのはトム・リプリーか、『水の中のナイフ』の青年か、はたまたジェームズ・ボンドの顔だろうか。それは自分の顔じゃない、そこには映画的な反射しかない」
相場「でも、ニールは?ニールはエモじゃね?ネットでニールは成長したマックスだ、って話を見たんだけど・・・」
ぢゅん「それって、ブロンドだからってこと?ゲースロの見過ぎじゃね?」
相場「ニールがマックスだったらめちゃ感動的だし色々辻褄が合うところもあるからそういうことでいいと思う!とにかくニールにはそうやって背景を妄想したくなるような立体感があるってことだよ」
ぢゅん「子供時代や、主人公と出会った「過去」を想像させるからニールが人間っぽく見えるんじゃない?記憶という過去の積み重ねが「自分」というアイデンティティを作るのだとしたら、ニールにはそれがある、ように見える。対して主人公は過去のない男だから」
櫻丼「子供時代といえば、セイターの「世界を巻き込んで死んでやる!」の動機って中々子供っぽいよね。自分の”外側”に世界があることが認められない人なのかなっていうか。子供の頃、「自分が目を閉じている時は世界が存在しないかも」みたいなのって一度は考えたことあると思うけど、大人になるにつれて自分が世界の「主人公」じゃなかったって気づいていくわけで・・・こう言うと、プロタゴニストが徐々に自分が「主人公」だったって気づいていくのと対照的だね。彼は自分が「主人公」だと気づくことで、自分の外側の世界を失っていくみたいだ・・・」
ミノ「そこで世界が「閉じて」しまう。自分から始まり、自分に終わる。彼は記録のメディアである映画といものの枠組みの限界に閉じ込められてしまったんじゃないか。この映画が複雑なのは、何回も繰り返して観ることを前提にしているからでしょ。その度に映画はありえたかもしれない選択から常に最善のルートだけを再生する。彼は映画という「硬い宇宙」で既に定められた未来に向かって既に定められた選択をする。彼はもはや時間に流される存在ではない。彼自身が時間なんだ」
櫻丼「時間は私を通り過ぎる川である、しかし、私自身も川である。 それは私を食い殺す虎である、しかし、私自身も虎である。それは私を燃やし尽くす火である。しかし、私自身も火である」(※)
ミノ「そこで、実はキャットだけが決定論的なTENETユニヴァースから自由になれた存在だったんじゃないか、と俺は思う。エントロピーが逆行する世界で、彼女だけはカオスだから。最初から彼女だけが「世界の秩序」のために行動していない。感情のために行動している。それは予想がつかず、主人公たちをかき回す。彼女だけが「怒り」というエネルギーでもって、定められた計画を無視し、限りなく自由意志に見えるものによってセイターを殺す。感情がTENETの対称性を破るんだ」
ぢゅん「まあ、そういう表象を女性キャラクターに託すことが果たして「今」の空気と噛み合うか、っていう問題はあると思うけどな」
相場「なんかさ、この店にくるといつも自動的に唐揚げを頼んでしまうけど、果たしてそれは本当に自分の自由意志なんだろうかって不安になってきちゃったな」
リーダー「ねよいいでけつのんくんゅぢはうょき」
櫻丼「わっいきなりなんすか」
リーダー「いいですか?ぢゅんくん?」
ぢゅん「えっいいけど…ってなにが?」
リーダー「「今日はぢゅんくんのツケでいいよね」を逆再生で言いました」
ぢゅん「謎の高度な技術で人を騙さないでくれる?!でもまあ、俺はリーダーになら騙されてもいいと思ってるよ」
相場「えもーーーーい!!!」
※ボルヘス『新時間否認論』