ミノ先生の新刊
相場「ちょうど上映前に『マレフィセント2』の予告やってたじゃん」
櫻丼「ああ」
相場「あれのせいでさ、本編始まった途端「なんか様子のおかしいマレフィセント来た」ってなったよね」
ぢゅん「ごめんそれは俺もちょっと思った」
ミノ「ツノの形状がね、ちょうどね。川崎ハロウィンパレードにいるタイプのマレフィセントな」
櫻丼「でも、あの”人を食った”感じの導入一発で作風伝え切っててうまいよね。それでこれは”一人称の物語”をやるんだ、っていう宣言にもなってて」
ミノ「それに今回、ミュージカルでしょ。ララランドの時にもそんな話をしたけど、ミュージカルっていうのは時空を歪める装置だよね。今回は、その歪み方は”一人称”の屈折率によってもたらされるんだ」
櫻丼「一人称の水面に映った彼の人生の話を聞くことが、メンタルヘルスのセラピーにもなってるって構成だけど、これは今作でエルトンジョン本人がプロデュースもやっているってことを汲むと、メタ的にもとれるよね。この映画で人生を語ることが、エルトンジョン本人のセラピーにもなってるんじゃないかっていう」
ぢゅん「その分、「盛って」いるところも多いとおもうけど、時系列的な正しさは敢えて意識させない作りになってるよね。そもそも自分の曲が自分の人生のイメソンになっちゃうって力技をやってのけてるわけで…」
相場「本当に、まるで話にあとから曲を付けたみたいにハマってるんだよね」
ミノ「俺あの、自殺したのに、身体だけ操り人形みたいにステージに戻されるって場面がミュージカル演出効いてて好きだな。「ずっと先になるまで、俺がみんなが思ってるのと違くなってるってことに気付かれないだろう」的な歌詞がまた怖い。主演のタロンも「歌わされてる」感がないのがすごいよね」
相場「「俺、音痴なんで〜」って言ってたバーニーが歌い出したら普通に上手いのは笑いどころなんですよね?」
櫻丼「この逆イメソン的な力技って、バーニーの書く歌詞が一筋縄じゃないからこそできるんだろうな。彼の詩って、光をあてる角度によって違う意味が浮き上がってくるようなニュアンスがあるよね。どこにでもはまりそうでいて、どこにもはまらないパズルのピースみたいなんだよな。だからみんなが「自分の歌」にできるんだね」
ぢゅん「「君の歌だって、言っていいよ」ってね。『ユア・ソング』の出来上がる場面は感動的だったなあ」
ミノ「音楽映画、名曲が3分で出来すぎ問題ってのはあるけどな」
ぢゅん「エルトンジョンは”即興の天才”なんだからいいんじゃない?ていうか、あの場面は結構事実に即してるって話だよ」
ミノ「確かにエルトンジョンは例外的なのかもしれないけど、音楽映画って産みの苦しみにはあんまりフォーカスしないとこない?大抵音楽制作シーンよりドラッグ描写に気合入ってる気がする。もはやこの人たちいつ音楽やってるんだ?みたいな」
櫻丼「破天荒に見えても実際はめっちゃ楽器練習してるだろうからなあロックバンドの人とか…」
相場「そういえば『ロケットマン』もコカイン描写に気合入ってる感はあったね!」
櫻丼「しかしさ、俺たちは今までに何回、才能あるアーティストがドラッグで破滅する話を見て、そしてこれから何回また同じ話を見るんだろうなって思うと暗い気持ちになるよ」
ぢゅん「どんなに個性的なアーティストでも堕ち方は似ているという」
ミノ「で、そういう典型例からまた「アーティストは破滅的でなんぼ」みたいな型が生まれるのがさらに嫌だよ。『パターソン』みたいに、早寝早起きして平日仕事しつつ創作したっていいじゃんって思うけどね。健康的に生活していたって、生きている限り創作する理由や欠乏感はあるわけだし」
櫻丼「そういう意味では、『ロケットマン』はアーティストの破滅的生活ドヤ!よりもメンタルヘルスの回復の重要性に焦点を当てていたのはよかったよね」
ぢゅん「カウンセリングの大切さとかね」
櫻丼「カウンセリングの描写でちょっとだけ気になったのは、あそこでさ、だんだん彼が舞台衣装の殻を脱いで”裸”になっていくっていうのが、心を開いていくメタファーのようになっていたよね。でも、彼が派手な衣装を着ることを全部メンタルのイシューに帰結させていいのか?と。装うってことには社会的な意味があって、彼が装いによって”道化を演じていた”なら、それはそのまま彼の政治的なアクションでもあったと思うのね。チャップリンの言葉に「私は道化師であり続ける。 そして道化師であることはどの政治家よりも私を高く飛ぶ飛行機に乗せてくれる」ってのがあるようにさ。そのあたりがね、今回の映画は見ようによっては派手な格好も彼の病理のひとつっぽく見えちゃうかなと」
相場「あと単純に好きなんだろうね!キラキラしたものがね!」
ぢゅん「戦略的な衣装はフレディ・マーキュリーにも通じるよね」
ミノ「そういえば、『ボラプ』と共通してた展開があったじゃん。主人公が悪いオトコに騙されてボロボロに傷つくっていうの。フレッチャー監督あの展開が好きなんだな」
ぢゅん「好きとかじゃなくて史実なんでしょ…」
ミノ「いいや、あれは絶対監督が好きなんだよ!だって毎回そこをサビに持ってきてるもん」
ぢゅん「だから史実…まあ確かにちょっとその部分を劇画チックに描いている気はするけども」
櫻丼「ていうか、求めた愛が得られなかった、っていうのは多くの人が共感しやすい悲劇だからメインに持っていきやすい、ってのはあるんじゃない。つまり皆んなのサビなんだよ。ユア・サビ」
ミノ「俺、そこが好みが分かれる点だと思うんだよね、この映画の。これって、本来はエルトンジョンの超個人的で奇特な人生の話じゃん。でもフレッチャー監督はそれを100万人の人生として描けるんだよ。
これって、実は個人的で複雑で奇特な詩である「ユア・ソング」を、100万人のラブソングすることができるエルトンジョンの才能と似ているのかもしれないけど。
この映画の中心にあった、親に愛されなかったり、依存症に悩まされたり、信じていた人に裏切られたり、マイノリティ差別に苦しんだりっていうのは、なにも人類史上エルトンジョンだけに起きた悲劇ではないよね。
悲劇の性質っていうのは、因数分解していけば誰しも心当たりがでてくるもので」
ぢゅん「だからこそ、この映画を観た多くの人が自分に照らし合わせて励まされたりするわけじゃない」
ミノ「もちろんさ、それは素晴らしいと思うし、描かれた幼少期のエピソードのひとつひとつが優れた音楽家としてのエルトンを形成していったのも事実だとは思う。
でもむしろ俺は、「優れた音楽家」であれたはずのエルトンジョンを、「ポップスター」というある種の怪物的なもの押し上げてしまった、その罪は、カルマはなんなのか?って所の方が興味があったんだよな。そこになにか、特異点があるとすればそれはもう、バーニーじゃん!」
相場「そもそも、2人で組んでやってるっての知らなくて意外だったよ」
ミノ「この宇宙の真理、人の欲望、スターの謎を暴くとしたら、バーニーじゃん!そこを描くしかないじゃん。この例える言葉のない関係性、エルトンの人生に立ちはだかった比類なき存在、その禍々しさに比べたら、ジョン・リードの……っていのは、実際の人物についてじゃなくて、あくまでこの映画の「おはなしの中のジョン・リードってキャラクター」について言うんだけど……ジョン・リードの呈する悪の種類なんか、ものすごく素朴なものじゃないか?…いやいや、この映画の持つ社会的メッセージとか、そういうメタな話はいま出さないでくれ、俺は今俺の出したい新刊の話をしているから」
ぢゅん「新刊の話なの?!」
ミノ「バーニーの純度の高すぎるロマンチックさ、それゆえの残酷さ、っていうのは映画でも描かれていたけどね、最終的には「美しい友情」「兄弟愛」あたりに落とし所を見つけていた感じがした。だけどさ、俺は絶対もっと際どい、一触即発的な、かなり危険な取り引きをしているなって思うんだよね、彼らは。創作を通じて。だってさ、バーニーはエルトンが自分に向けた恋心すらわかった上で、そしてそれに応えられないと断った上で、しかし創作の世界の中でエルトンに代わってそれを唱うんだよ。これはちょっと、倒錯的といってもいいような、ありえない業のやりとりがここにあるんであって、そのありえなさがポップソングとしての強度を生んでいるんだと俺は思うわけよ。俺これだけで映画撮れるもん。これだけで撮るべきだったし」
櫻丼「いやもうすげえ言いたいことは分かったけどあとは自分で石油掘り当ててからやってくれよ」
ぢゅん「ところでリーダーは」
リーダー「”リーダーは現れなかった。彼の不在は2019年の夏の終わりまで続いた”」
ぢゅん「いやいるじゃん。史実ものにありがちなエンドロール前のまとめ風に言ってるけど普通にいるじゃん…」
リーダー「しぃっ、とりあえずこういう感じでまとめておけばそれなりに終われるんだよ」